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                  | − 鎌倉街道と宝善院 − | 
                 
                
                  
                   
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                   宝善院境内の南に隣接する石垣下の道路を、かつては「輿道(こしみち)」と呼んでいました。(写真・石垣左下、正面高麗山へ向かう道路)大正時代くらいまで、西相模の中心的祭事である国府祭(こうのまち)の神輿は、東海道を通らずここを通過していました。その理由は、ここがかつて鎌倉街道であったからです。 
                   慶長6年(1601年)徳川家康公は東海道五十三次の宿駅制度を導入され、平塚は藤沢と大磯の間の宿駅となりました。このとき手狭となった輿道・鎌倉街道から数百メートル北に、新たに街道を移動しました。それが当院北の旧東海道です。 
                   子供の頃の思い出では、当時の輿道は現在よりもずっと南にあり、今の道路敷きは墓地と土手でした。道の南は田んぼで、道と田んぼの間に小川が流れ、現在の四十瀬公園は池になっていて、夏には小魚捕りをしたものです。戦後の区画整理事業で道路が拡張され、墓地が道路にとられたのです。 
                   現在、宝善院の本堂は北向きになっていますが、元来、寺院建造物は南向きに建立されるべきものです。鎌倉時代の創建当時、当院は南の鎌倉街道に面し建てられていました。ところが江戸時代になって街道が後ろに来て、いたしかたなく北向になったという次第です。 
                   
                   だんだん北上した東海道 
                   輿道、旧東海道、国1バイパスと平塚本宿を東西に通過する街道は時代ととも北上したのはなぜでしょう。鎌倉街道が当院南あたりにできた理由は、このあたりで見る高麗山が一番山の姿が美しいからだと思います。北に行くほど山の形が崩れるからです。 | 
                 
              
             
             
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