「声明(しょうみょう)とは、どういうものなのか…
− 「声明」早分かり −
大谷大学 教授 岩田宗一



 このたび、刊行会代表の松下隆洪師から「声明の伝来と、それがわが国の音楽にもたらした影響」について、極めて簡潔にまとめるようにとのご要望をお受けしました。いずれも大論題であることを十分承知の上で、あえて以下のような稿にしたためさせていただきました。


 僧侶が節を付けて唱えるお経や、仏さまの徳や慈悲を讃えて伝統的な節を付けて歌う讃歌などを、古代インドではガータと言い、中国や日本では現在も「梵唄(ぼんばい)」と言っています。
 一方、古代インドで文字の発音を研究する学問を“サブダヴィジャ”と言い、中国ではこれを声明と訳し、日本へも発音(音韻)の学問を指す語として伝わりました。ですから、中国でも日本でも声明は、梵唄(賛歌)とは別のことを指す語だったのですが、鎌倉時代に天台宗の湛智(たんち)という声明家が、「声明用心集(しょうみょうようじんしゅう)」「声明目録」という著書のなかで、梵唄の理論を述べたことから、日本では梵唄のことを声明とも言うようになりました。それ以後どちらかというと、声明という言い方のほうが広く用いられています。以下、声明とさせていただきます。


 中国に仏教が伝わったのは今から二千年ほど前ですが、中国に運ばれたお経の大部分はすぐに中国語に翻訳されましたので、儀式のお経や讃歌は、インドから伝わった節(ふし・旋律)そのままではなくて、中国語に合った節で朗唱したり歌ったりしたものと思われます。それでも一部はインド語のままで唱えることもありましたので、そのような部分にはインドの節が遺されていたかも知れません。
 しかし二百数十年も経ったころには、中国にも独自の讃歌やお経が生まれたようです。そのことを物語るのが「魚山伝説」であります。三国時代の英雄曹操(そうそう)の子息曹植(しょうしょく・192〜232)が斉(せい)の国の東阿(とうあ)の王であったころ、魚山という丘の上で、天上から響く音楽を聴き、その節に模して讃歌を作成したのが、中国声明の始めであるというのです。
 この話は中国の人々が、中国梵唄(声明)の始まりをこの偉大な詩人である曹植に求めたいという気持ちの表れでありましょう。読者の中には過般、松下隆洪師とともにこの魚山の曹植の墓を訪ねられた方も、おられることと思います。(筆者も別途に訪ねました)
 ところで声明は日本に、いつ頃何処から誰が伝えたのでしょうか。まず中国から高句麗(こうくり)へ372年仏像やお経が伝わりました。やがて新羅(しらぎ)や百済(くだら)に伝わり、538年にはその百済から仏像とお経が日本に贈られています。しかし、それと同時に仏教儀式と不可分の声明が伝わったと見ることはできません。日本で仏教儀式が行われた最初の記録は、日本書紀にある584・5年の蘇我馬子による石仏殿や舎利塔供養ですが、このとき勤めた僧は百済や高麗系の尼僧であったとのことです。しかしどのような儀式と声声であったかは記されていません。
 その後、奈良時代を通じて大寺院の最高位の僧の大部分は、中国や朝鮮半島からの渡来の僧でありました。一例を挙げれば、752年に行われた東大寺の大仏開眼供養(かいげんくよう)を主宰し、同年に当時から今日まで絶えることなく行われている同寺二月堂のお水取り(十一面観音悔過・けか=修二会・しゅにえ)を始めた東大寺の長者は、中国(唐)からの渡来僧、実忠であります。このうち、大仏開眼供養会では現在の奈良各寺や天台・真言宗に伝わる曲名と同じ曲名の声明が唱えられたことが記録されていますが、その旋律についてはやはり分りません。しかしお水取りは今でも行われていますから、当時の旋律の面影を今日に伝えるものとして注目されています。
 また奈良時代の始めの720年にはお経の読み方について、やはり渡来僧と思われる道栄という僧の唱え方を手本として統一すべきであるというお触れが出されています。さらに736年には、インド・イラン系や今のヴェトナム系の僧も日本に渡ってきて、儀式や仏教芸能(伎楽)などを伝えています。このようでありますから、日本には声明は、長期に亙って次々と日本に渡ってきた中国・朝鮮・南方の僧たちによって伝えられたのであります。言い換えますならば、隋・唐時代の中国の仏教儀式や梵唄が直輪入されて、日本の寺院でほとんど同時代に行われ、唱えられていたと云っても良いのであります。
 奈良時代も終わりに近くになりますと、声明は各寺院でますます盛んになり、その結果、唱法に乱れが生じるまでになっていたようで、「哀音(あいおん)をやめ、正音(せいおん)を用いよ」との布告が出されているほどであります。
 哀音とは恐らく、寺院の伝承からはずれた民間歌曲の節回しを指したのではないかと思われます。
 さて、平安時代になりますと様子が変わってまいります。日本から積極的に中国に出かけていって、仏教を学び、それを日本に伝える僧が現れたのです。帰国後、延暦寺に天台宗を開いた最澄と、東寺(教王護国寺)に真言宗を開いた空海がその人です。ただ、声明に関しては天台では三代目の円仁が中国の天台山から伝えたものが基盤となり、真言宗では空海に続く僧たちがその基礎を築いたと考えられています。
 その後、天台宗には良忍(1073〜1132)が出て中興し、真言宗では寛朝(919〜998)が中興のあと,1140〜50ごろには覚性親王(かくしょうしんのう)によって、本相応院流(ほんそういんりゅう)・東相応院流、醍醐流、進流(しんりゅう)の四流派に整理されました。このうち進流は、大和中川寺から高野山金剛峰寺に本拠を移し、新義真言宗の分流後は根来寺(ねごろじ)、長谷寺(はせでら)、智積院(ちしゃくいん)にも引き継がれ、やがて真言宗全体に広がりました。


 音楽の上から声明を見ますと伝来系には、幾つもの小旋律型(小さな節のまとまり)がつながってーつの曲ができているものと、文字の音節や抑揚ごとに短い音が付けられているものとがありますが、この二つの傾向は、日本製声明にもはっきり見ることができます。たとえば真言宗で読まれているや四座講式(しざこうしき)や天台宗の六道講式(ろくどうこうしき)などの講式声明は「重(じゅう)」という、云うならば大旋律型によって曲を構成しながら、細部では一言一言の抑揚や表情に考慮した音が付けられていますので、その両方の性質を備えているということが出来るのです。
 ところでこのような声明が、日本古来の音楽と比べてどのような違いがあったのでしょうか。それを考えるには、声明以前の日本の音楽がどのようであったかということが分からなければなりません。しかしその時代の姿のままで現在にまで残っている音楽は残念ながらありません。宮中で行われている「東遊(あずまあそび)」や「御神楽(みかぐら)」の行事の中の「駿河歌(するがうた)」や「阿知女(あじめ)」などの古代歌謡も、大陸から入ってきた雅楽の影響を受けて雅楽器の伴奏で歌われています。
 このように日本に大陸文化としての声明や雅楽が伝わってくる以前の日本固有の音楽は、現在では宮中や大神社での行事や神事を通じて、はるかに偲ぶ(しのぶ)より外ありません。しかしそれらに共通することがあります。それは、歌われる言葉のことであります。声明は梵語や漢語であり、雅楽は当時の世界最高の合奏音楽ではありますが、日本にとっては声明とともに外来音楽であることに変わりありません。そのような音楽事情の中で、日本古来の言葉で歌われた歌や、古来から日本にあった楽器による音楽などとは、かなり長期に亙って融け合わないで併存していたものと思われますが、平安時代になりますと声明や雅楽を積極的に日本人の感覚に沿って自分たちのものに消化しようとするようになったのではないかと考えます
 勿論そのような傾向は、宮中の公郷(くぎょう)達みずからが楽器を演奏したり、仏教法要に参勧(さんきん)したりしたことと深い関係があります。しかし神道音楽には雅楽が重要な役割を持つようになったとはいえ、歌は外来歌曲にとって変わることは不可能なことであります。古来からの歌曲はたとえ伴奏楽器として雅楽器が用いられ、そのことによって大きな変容を遂げたとしても、今日までその面影を留めてきたと考えることが出来ると思います。
 その様子は、ちょうど明治期に入ってきた洋楽器ピアノの伴奏で日本古曲を歌うことが行われるようになると、小節線で区切られた拍によって節が数えられると同時に、音の高さも平均律というピッチにはめられるという変化が生じたのと同じ様な影響があったと思われます。


 ここまで見てきましたように、雅楽や声明という伝来音楽は、古来から日本にあった音楽に次のような影響をもたらしたものと考えます。
@ 歌では旋律型の連結や漢語の抑揚(四声)に基いた声明曲の造り方(構造)が、それまでの日本語の抑揚と歌詞の句読(切分法)に従った日本古来の歌曲の、旋律の造り方に採り入れられていったであろことは充分に考えられます。この傾向は漢語の日本語への流入と、軌をーにすると思われます。
A 歌と楽器の両方の音楽について、「拍」または「拍子」という考えが入ってきたことにより、古来の日本音楽にも「拍」の考えが生じたものと思われます。また歌の伴奏に外来楽器である雅楽の楽器を用いるようになり、それまでの日本固有の音律(音の高さ)に、雅楽律(振動数)へと引き寄せられるという変化が起こったことは容易に考えられます。
B 雅楽や声明(特に雅楽)の音階についての理論に、古来の日本音楽も組み込まれたであろうと考えられます。


 伝来声明がわが国の音楽(邦楽)に何らかの影響をもたらしたことは明かでありますが、この両者には経過的な中間段階があります。それは外来声明の日本化であります。先にも触れましたが、小さな旋律型をつなぐという曲の作り方や、文字の抑揚にもとづいて旋律を作るという方法が、中国や朝鮮から直接伝えられて、今日まで残っているのか、わが国で変化または考案された作曲法なのかは、いずれとも断言できませんが、いずれにしてもこの作曲法は日本製声明にも形を変えて受け継がれ、講式、表白、祭文法則などのいわゆる「読み物声明」は勿論のこと、和讃、往生礼讃、讃嘆などの豊かな旋律を備えたいわゆる「歌い物声明」を生み出しました。さらにこれらは一方では宗教民謡とでも云うべき念仏、御和讃、御詠歌などを生み出す源泉となり、また一方では語り物琵琶音楽(特に平家琵琶)や同じく語り物である浄瑠璃音楽や能の謡曲を生み出す源泉ともなったのであります。
 このうち念仏は、南無阿弥陀仏というわずか六文字に、極めて多種多様なリズムや拍を持つ旋律が施されるという、声明の分野でも一大種目を形成することとなりました。そしてこの念仏がお寺から出て一般民衆の手に渡るや、すさまじい勢いで念仏芸能とでも云うべき芸能の、これまた一大種目を形成するに至ったのであります。そして今日にも全国各地に行われている念仏講、大念仏狂言、六斎念仏などの芸能へと発展していくのであります。
 また琵琶音楽の中でも平家琵琶は独自の発展を遂げ、謡曲は鼓、太鼓、笛などとともに能の一翼を担い、三味線と一体になった浄瑠璃などの語り物音楽は、やがて人形劇や歌舞伎という舞台音楽へと発展したことはよく知られている通りであります。


 先にも記しましたように、曹植と魚山の名は没後数十年に書かれた三国志の魏書に初めて登場し、没後約三百年の梁高僧伝や没後三百六十年(593)建立の碑文にも出てきますが、その曹植が魚山で天上からの奏楽を聞いたという記事は、没後四百年の『広弘明集』が初めてであります。その後に続く『法苑珠林』(668)『釈氏要覧』(1019)や『仏祖統記』(1269)では、曹植がその音楽を倣って梵唄を製作した、というようになっています。
 わが国では承安二年(1173)に、大原の声明師家寛が後白河法皇に撰上した声明集の序文(執筆者は澄憲)の中に、「昔陳子王之遊魚山  遥聞仙人之唄声・・・」(むかし陳子王=曹植、魚山に遊び、はるかに仙人の唄の声を聞き・・・)と書いていることで分かるように、曹植と魚山と声明とを結ぶ話はこの頃までには日本に伝わっていたのです。
 そして嘉禎四年(1238)には、大原の声明家の宗快が声明記譜上の原則の一覧表を作成し、それに『魚山目録』と名付けたことでも分かるように、この時までには魚山を声明と同じ意味に用いていたばかりでなく、現在の大原一帯を指して魚山と呼んでいたことも明らかになっています。
 少々脱線しますが、後白河法皇が建礼門院を訪ねて大原へと向かう「灌頂の巻(かんじょうのまき)・小原御幸(おはらごこう)」で、平家物語の末尾を飾っているのは、琵琶法師たちがその芸能の発祥を天台声明に求め、その中心地を大原としていたことの現れと見るのは穿ち(うがち)過ぎでしょうか。
 一方、真言宗でも魚山の名は1496年に長恵が編纂した声明曲集の巻末に「魚山芥集(ぎょさんたいかいしゅう)」とあるのをはじめ、その後、『魚山私抄』『魚山集』などの名称を持つ声明曲集が多く著されているのを見ても、魚山が声明と同じ意味で用いられてきたことが分かります。
 このように魚山は日本においては、ひろく宗派を越えて声明の代名詞であるばかりでなく、その発祥の地を遠く中国に求める心情と、伝承の上での正当性の表明であるのであります。そうでありますから、これまでわが国から中国のこの地を訪れて、少なくともその所在をその目で確かめることが行われなかったのは真に不可思議なことと云わなければなりません。多数の東寺真言宗の方々が昨年六月に魚山を訪ねられましたことは、わが国においては声明の再評価、再認識の契機となりましょうし、中国側にとりましても魚山と仏教寺院音楽への関心の高揚に大いに意義を持つものと考えます。筆者も昨年三月末に天台宗の天納傳中師を団長として九名ばかりで魚山の地を訪ねることが出来ました。その時は魚山の丘とその周辺は全く未整理の状態でしたが、わずか三ヶ月後に東寺真言宗の方々が訪ねられたときには、信じられれない早さで整備が進められていた様子を、松下隆洪師からこの「会員便り」によってお知らせ頂きました。



 中国側の上記のようなすばやい対応は、とりもなおさず中国国内に於ける魚山の再認識と関心の高まりの現れに他ならないと考えます。そしてその契機となったのが日本からの訪問者の増大であったことも事実でありましょう。中国のみならず日本においても、これまでは曹植の名は、主として偉大なる詩人として、また悲劇の王族の一人としてでありましたが、今後、仏教音楽の立場から、魚山伝説を生んだ時代の背景や寺院音楽それ自体の歴史研究が、「魚山曹植墓」の日本に於ける紹介を手始めとして日中双方の研究者の手で進められることを願って止みません。また、日本に伝存する雅楽の管絃や舞楽とその音楽理論等の中国に於ける資料の発掘と紹介も本紙上において手掛けられたことは、研究上大いに貢献するものと考えます。