六大新報 昭和35年1月1日号より
ー 声 明 要 説 −
 (声明レコード完成所感)
神奈川県宝積院主 大僧正 鈴木 智辨

 拙老、去る昭和三十年一月県下道友の勧めにより、未熟を顧みず声明レコード作成を発願し、漸く去年十一月完成しました。これ全く佛祖の加護と、外には東高両本山始め宗内諸大徳の物心両面に於ける御援助と、内には実行委員の絶大なる御配慮によるもので、今更の如く如来の加持力と法界力の三力によって普供養而住し得たことを痛感し、深く感謝感激しています。この完成に際し、いささか所感を述べて松本主幹の依嘱にむくい、併せて宗内諸大徳の御指導を御願い申します。

 声明に眞言天台の両派があり、台家の声明は曲線譜を用い源を大原三千院に発し、広く天台浄土真宗日蓮の各宗に普及し、眞言は直線譜にして中川寺に起こりて後、高野山に附属せられたるは、諸師の夙に御承知の通りである。かく大原の系統が宗派の分派と共に広く諸宗に及びたるに、南山進流は独り眞言一宗に興り一般に普及せざるは蓋して宗内特有のものとしてこれを伝承し、他に宣伝せざりし為めにあらざるか。現に世の音楽家がしきりに声明に感心をよせていらるるが、これまた多くは台家の声明である。NHK在勤の摩尼清之君が知己の音楽家に南山進流のあることを宣伝していらるるに徴しても明らかである。本宗にも新古の諸伝格別なるも、故智山化主瑜伽教如大僧正は、智山の声明は大原系ではなく醍醐系なりと申して居られましたが、定惠十六讃に醍醐進流と銘記せられているのに徴しても、進流の一派なるは明らかである。
 南山進流の唱誦にもまた両様がある。一は高野諸伝の譜にとらわれず、しかも譜に契う滑らかな唱え方で、他は葦原僧正相伝の譜を正しく区切る唱へ方である。共に普門院理峯廉峯如意輪寺弘栄前官の諸伝で、ただ唱え方に剛軟の別あるのみ異伝ではない。拙老は稽古には譜を主とし、実修にはやや柔かにせよと教えている。これ高野系の如くせば伝習に要領を得難く、また譜にとらわれては、何んとなくゴツゴツする恐れがあるからである。
 発声は声帯の振動数によるものである。振動数が同一でない限りは少々の差異あるは免れない。その最も近き音声なれば、耳には調和音に聞える。古来経は耳で読めと言わるるゆえんである。それゆえ法席列座の人々がよくその音調に注意し、長短高下に心を用いれば不調和を来たすことはない。心すべきことである。六大誌第二五九六号(三四、一〇、十五日発行)に井上亮深僧正の玉稿「声明に関する希望」に岩原僧正と拙老の伝の相違を述べていらるるも、その席に列していないから、その不調和は何れにあるか判断し兼ねますも、岩原僧正も拙老も共に葦原僧正の伝を継承しかつては、共に打合せした事もある。また平素斯界の大一人者として敬慕してもいる。もっとも同僧正はいろいろ研究して五線譜までに改編していられるので、或は新工夫があるかも知れぬ。井上僧正のあげられた理趣経讃の第三句につき、岩原僧正の五線譜も調べたが(拙老は五線譜に暗いから知人に依頼)唯「戻」その他に口内当たりの如き強きところがあるのみで別に変りはない。明治魚山の「哉」の終の譜「張に「大ニ下スコト摩ノ角ニ同ジ」と註し、また第五句の「教」の「張に「大ニ下シ金ヘ続ク」と註せらる。この両者を比較するに「哉」は窒謔闢位下して角へ、「教」は窒謔顯窒ノ続くのであるから戻の高くなつただけ下せばよいと思う。その下し工合には按排を要する。恐らくはその下し工合に不調和の原因があつたのではないか、御一考を請う。
 近時、用務の多端寺院経済の関係からとかく法会が簡略化され、したがって声明も粗雑になつていることは井上僧正の指摘の通りですが、また一面より見れば法要の盛なる地方がかえって声明が乱れてはいませんか。これはあまりに法要ズレした結果ではないか。僧侶自身が反省せねばならぬ。彼の金剛講大和講の詠歌の一糸乱れざる唱え方を聞き、その眞剣さに頭の下がる思いがする。これは鈴や鉦鼓を用いて調節する為ではないか。声明の唱誦にも適当の楽器を用いて長短高下等を調節してはいかがか。
 師伝の相違により声明が不調和になるとせば、これを匡正するみちは打合せ会を開き、少異を捨てて大同に就く外はない。拙老京都在住中、故松橋慈照僧正の主唱にて高野山にて打合せ会が開かれたことがある。その唱誦者は高野の松橋、宮野、関口の三僧正、地方からは松帆、眞鍋の二僧正と拙老、臨監者は鎌田、法性、加藤、高岡の各大僧正、随喜は大阪の融等吽僧正、異議ある時は是等宿老の了解の下に解決した。その後かかる会合はないが、もしかかる会合が各地に行われば自然統一が出来ると思う。殊に井上僧正は雅楽の造詣深く、自他宗はもちろん神道方面の儀式にも参加され種々の感想や批評も聞いて居らるる事と存ずる。此等も他山の石として、深く研究工夫して法儀を意義あらしめられたい。

 最後に一言したいのは、近時青年僧の間に従来の声明では現在の人心にそぐわぬ、宣しく時代にそうよう改組せよとの声が多い。これは中々重大問題。もしこれを実行するとせば、甚深の注意を要する。その第一は声明は佛徳讃歎の音芸で娯楽的でないこと。第二は改組するには従来の声明を徹底的に研究し保存すべき点、改組すべき点を明確にし、その基礎の上に就て改編すること。第三は音楽家は声明を知らず、声明家は音楽を知らず、改組の時は自然作詞作曲に及ぶゆえ、必ず音楽に理解のある僧侶を参加せしめて音楽家と共同せしむること。これは中々大事業なれば、研究に研究を重ね万遺漏なき様にし、いよいよ実行する場合は断然たる決意を以て事に当たらねばならぬと思う。
 以上所感を述ぶ。諸大徳の御参考にもならば幸甚。


(本稿は大沢耀雅・東寺真言宗法会部長が書庫より発見されたものを拝受し掲載しました。)