− 平塚探検隊 平塚おもしろ地名学(その1) −
謎の南北線 二つの高麗神社(大磯と埼玉)と二つの平塚(神奈川と埼玉)を考える
宝善院住職 松下隆洪(平成25年2月1日・改訂第2版)



 

 私たちの住む神奈川県平塚市は、どうして「平塚・ひらつか」と呼ばれるのだろうか、従来の「伝説」などではなく、もうすこし別の角度から考えてみたらどうなるのだろうか。

 平塚生まれの筆者が小・中学生の頃だが、子供はどこへでも出かけて遊んでいた。学校から自宅に帰って勉強などする子供はまずいなかった。子供は暗くなるまで外で遊んでいた。大人たちは平塚空襲直後の貧しい時代で、とにかく稼ぐことで精いっぱいだった。

 今では信じられない話だが、空襲直後の平塚には、日常的に異常風景があった。現在の八間道路とJR東海道線は地下道で交差しているが、当時は番人が常駐する踏切で、たしか北側大磯寄りには壊れた戦車がしばらくのあいだあった気がする。その先西側の現在の専売公社がある所は、空襲で壊された建物があり地下室には、今から考えると、たぶん機関銃だったと思われるものが油紙につつまれて置いてあった。子供のチャンバラは「サンパチ銃」の本物の銃剣でやっていた。銃剣を砂にとうしてピカピカに磨くのが当時の子供の心意気だった。それが今思い出しても分からないのだが、いつのまにかその銃剣はいっせいに消えていた。

八間道路とJR踏切の現在。
地下道になった。
戦後、右端に壊れた戦車がしばらくあった
現在の専売公社工場。
戦後まもなくの頃、写真の鉄橋はまだなく、
この奥には空襲で壊れた建物があり、
地下室に恐ろしい物があった。(本文参照)

 当時、地域の子供の遊び場は、当院の境内か墓地か、隣の「阿弥陀寺の池」とその周りだった。現在の平塚本宿「四十瀬川公園・よそせがわこうえん」は、「阿弥陀寺の池」と呼ばれ今の公園面積の半分程度が溜池で、周りは田んぼだった。春から夏、近所の悪ガキは「阿弥陀寺の池」が、主たる遊び場だった。子供はチャンバラかメンコか池で小魚をとったり、パチンコでスズメを撃ったりなど、すべて原始的でお金のかからない遊びが主流だった。覚えているのは小遣い5円をもらうと、近所の駄菓子屋「たびや」に行くのが近隣子供の最大の贅沢だった。

現在の四十瀬川公園。正面は高麗山。
かつてここには、阿弥陀寺の池と呼ばれる大きな溜め池があった。

 その頃、、、、、小学生高学年から中学生になると遊び場も遠出するようになり、目標が高麗寺山(こうらいじやま)か千畳敷(せんじょうじき)に出かけるようになった。「高麗寺山」は現在の大磯・高麗神社(こまじんじゃ・現在の社名は高来神社・たかくじんじゃ)の本殿後ろから登ると奥宮があり、そのあたりを高麗寺山と呼んでいたと思う、そこからいったん下って上り詰めた所が「千畳敷き」で、今は「湘南平」と呼んでいる。当時、千畳敷きには戦争中の高射砲の銃座が残っていた。今、そこにはテレビ塔にレストラン、パノラマお立ち台ができ、四方を見晴らす「見晴らし台」が作られている。

かつての「高麗山千畳敷」。今は「湘南平」という。
戦争中、タワーの左に高射砲が据えられていた。

 当時子供の背丈でどこから見下ろしたのか不明だが、春、今の「スーパー・ダイクマ」あたりは一面の田んぼで、菜の花の絨毯だった。南を見晴らすと湘南海岸が青松白砂の向こうに見える。その美しさは子供心にもうっとりするほどだったのを覚えている。

高麗山からは相模湾が一望できる。
古代においては海上からの絶好のランドマークだった。

 高麗寺山から千畳敷に行く途中、山道の笹、草の間に不思議な、垂直に掘られた一辺2メートル四方程の深さも分からない不気味な垂直の穴があったのを思い出す。深さがどれほどあったかなど不明だが、なんだか恐ろしい穴だった。あれは何だったのだろうか、この歳になってもふと思い出したりする。もちろん今は危険なので塞がれただろう。

 それが最近、ある書物を平塚の古書店で偶然見つけて驚いたことがある。北九州の高句麗古墳遺跡(熊本県玉名市周辺)にはそのような謎の穴がある遺跡があり、上から小石を落とすと「トンカラリン」と音がするのでそのような遺跡を「トンカラリン」と呼び、高句麗古墳特有な遺跡であるという。(『トンカラ・リンと狗奴国の謎』金思華著 六興出版)

 大磯町・高麗神社(高来神社)がある所は今も地名は大磯町高麗(こま)という。古代朝鮮半島の高句麗となにか関係があるのだろうか。

地名は今も『おおいそまち こま』だ。

謎だらけ、広重の「東海道五十三次 平塚宿 絵図」

 著名な江戸時代の画家、安藤広重の東海道五十三次「平塚宿絵図」を、見たことのない平塚市民はまずいないだろう。

東海道五十三次 平塚宿 絵図


 ところで筆者は、もし「広重さん」がご存命で"御面会"可能ならば、「広重さん」にクレームを述べたいことが一つある。というのは、今日までそういうクレームを唱えた平塚市民はいないらしいが、この絵は見れば見るほどおかしな絵ではないか。ある意味、平塚住民をばかにしている絵といっても過言でない。なぜって、「平塚宿・宿絵図」といいながら、平塚宿の風景は何も描かれず、隣町、大磯宿の「高麗山(こまやま)」が絵の中心に描かれている。この絵の構図を説明すれば、平塚宿の西はずれから見た、大磯宿方面図ということになる。高麗山の遠景を描き、大磯から平塚へ向かう飛脚と数人の旅人が寂しい街道を歩いており、背景には高麗山が大きく描かれている。これがどうして平塚宿の宿絵図なんだろう。平塚を知らない者がこの絵を見れば、平塚宿はショボイ山のふもとの、ただの寒村で、人家も無いような寂れまくった、場末の宿場に描いてある。こりゃあんまりだというのが、私のクレームだ。

 江戸時代末期の天保年間、平塚宿には408戸2、114人の人口があり旅籠(はたご)も50軒もあった。「平塚宿本陣」を中心にそれなりの宿場が有ったにも関わらずだ。ちなみに大磯は1,026戸、小田原は1530戸だった。

  江戸時代平塚宿のもよう
「東海道分間延絵図」
原本 東京逓信博物館 写真 宝善院蔵
江戸時代平塚宿のジオラマ 平塚市博物館  

 どうして広重は平塚宿の主題を隣町の高麗山に置いたのだろう。もしかすると「平塚を知りたければ高麗山に登れと」ばかりに、モンナリーサの微笑みの如く、謎めいた絵を残しておいたのかと思えば、なかなかの絵ではないかとも思えてくる。

現在の高麗山を眺める
 (ロイヤルホームセンター屋上から)


 広重もそれほど云うのだから、とにかく平塚の歴史を知るには「高麗山」に登ってみることらしい。
 平塚市を東西に通る旧東海道は、平塚の西のはずれ、花水橋を渡ると大磯町に入る。まもなく、すぐ北側に高来神社(たかくじんじゃ)=高麗神社(こまじんじゃ)と慶覚院(高麗寺)がある。


 国道1号線の「高来(たかく)神社入口」の信号から神社参道へと右折すると「高来神社」(たかくじんじゃ)の石柱が建っており、ここが旧社名「高麗神社・こまじんじゃ」である。地元民は昔から「こまじんじゃ」「こうらいじ」と親しく呼んできたし、ここの地名は今も「大磯町高麗(おおいそまちこま)」なので、ここでは高麗神社(こまじんじゃ)で話を進める。


地名は高麗(こま)だが、
神社は高来(たかく)神社という
高来(たかく)神社入口 「たかくじんじゃ」と読む

  高麗神社(高来神社)の入り口
後ろの山が高麗山
高麗神社の社殿  


 高麗神社の本殿の後ろにすぐ登山道があり、2,30分も登ると小さな広場に出る。昔の奥宮のあったところで、そこに環境省と神奈川県が立てた説明板があり、次のように書かれている。

 「高麗山(こまやま)と若光(じゃっこう)
 昔から日本と朝鮮の文化交流は深く、相模の国をはじめ東国七州の高麗人を武蔵の国に移して高麗郡をおいたと「続日本記」には書かれています。奈良時代のころ高句麗は唐・新羅に滅ぼされ、日本に難を逃れた人も多く、その中に高句麗王族のひとり高麗若光もいました。若光は一族を連れて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂(けわいさか)あたりに住み、この地に高度な文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました。
環境省 神奈川県 」

高麗神社・奥宮跡地 奥宮の跡に環境省と神奈川県が
立てた説明版
古代朝鮮との関係をはっきりと記している
古代に高句麗人が住み着いた
といわれる化粧坂(けわいざか)

  旧東海道の化粧坂付近 旧高麗寺といわれる現在の慶覚院  


 広重が平塚宿の中心になぜか描いた高麗山は、古代朝鮮半島の覇者・高句麗に由来し、戦乱を逃れた高句麗王族上陸の故地こそ、大磯町で、高麗山のふもとの化粧坂(けわいざか)は彼らの居住地だったと説明されている。歴史では高句麗が唐と新羅の連合軍に滅ぼ されたのは紀元668年だから、若光王一族が大磯に上陸したのはちょうど今から1343年前の頃になる。 (筆者注 大磯「高麗神社」の社名の変遷 高麗神社(こまじんじゃ)を「コウライジンジャ」と読み「コウライ」を「高来」と文字変化させ、「高来・コウライ」を「タカク」と読み替えたか?) 大磯町高麗神社の祭礼には、若光王が大磯照が崎(てるがさき)海岸に上陸する模様が再現され、その様子を伝える「きやり」歌が今も伝承されている。1300年の時空を超えた一大パノラマではないか。その歌詞を紹介すると、


 「御舟祭り木遣り歌
にわかに海上騒がしく浦の者とも怪しみて はるかの沖見てあれば 唐船いそきて八の帆をあげ 大磯の方へかじをとり 走り寄るよと 見るうちに 程なく汀に船は着き 浦の漁船こぎよせて 船の中より翁一人立ちいでし 艫(とも)に登り声をあげ 「汝らそれにてよく聞け 我は日本の者に非ず 唐の高麗国の守護なるが 邪険な国を逃れ来て 大日本を志し 汝ら帰依する者なれば 大磯の守護となり 子孫繁昌と 守るべし」

  高句麗人大磯海岸へ渡来の絵 湘南平(昔の高麗山千畳敷)から。
右端が高句麗人上陸の伝説がある大磯港。
左端は花水川を挟んで
平塚市黒部神社地(黒部は呉部ともいう)
 

  高句麗人の大磯上陸を再現する「明神丸」
高来神社の祭礼に隔年に出る。
(5月・大磯町郷土資料館)
高麗寺
山門にあったという仁王像
(大磯町郷土資料館)
 

湘南平(高麗山隣)から
高句麗人上陸の地・大磯港を眺める。
1300年前の故事
高句麗人上陸の故地、
大磯照ヶ崎から相模湾を見る。
高句麗人上陸の故地(1300年前)
大磯港より高麗山を眺める。

 大磯町・高麗神社を中心に相模地方を開拓していた高麗人と若光王たちは、その後中央政府の命令で武蔵国に移され、そこに高麗郡を置いたと「続日本記」に書かれている。それが現在の埼玉県日高市の高麗神社と高麗寺ということになる。同神社の由来書に次のようにある。

埼玉県日高市の高麗神社
大磯の高麗神社(高来神社)と
南北一直線上にある
高麗神社は正しくは高句麗神社だ 高麗神社の由来

 「(埼玉県日高市)「高麗神社の由緒と歴史」
高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光です。中略 若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当りました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社の創建の経緯です。」
(高麗神社ホームページ)

高麗若光の墓がある聖天院 高麗山聖天院の由来 聖天院の山門

   
  高麗山聖天院勝楽寺の由来 高麗王廟(若光王墓)  


 地名「ひらつか」ビックリ物語り

 さて、これからがビックリ仰天話になる。カーナビをお持ちの方はお調べください。

 大磯町高麗神社(高来神社)と慶覚院(高麗寺)は経度でいうと東経139度19分にある。大磯町高麗神社から真北に約100キロ北上すると、埼玉県日高市の高麗神社と高麗寺にぶつかる。つまり南北100キロの同一線上、同経度に二つの高麗神社と高麗寺があり、さらに、二つの高麗神社の東には、同じように「平塚」という地名がある。神奈川県大磯町の高麗神社の東に平塚市があり、埼玉県高麗神社の東にも、川越市平塚と平塚神社がある。

 平塚という地名発生にこれ以上の不思議は無かろう。


   
  埼玉県高麗神社の東に川を挟んで
やっぱり平塚がある
(右側の白い看板に注目)
川越市平塚の地域会館  

   
  川越市の平塚神社 鳥居には平塚氏子中の文字  



 さらに不思議なのは、この南北線に存在する寺社の異常な多さである。大磯町高麗神社から埼玉県日高市高麗神社までの約100キロを北上すると、200以上もの寺社がうじゃうじゃある。平均すると400メートルごとに1寺・社、点在していることになる。明治維新で多くの寺社が消滅合併しており、それらを加算すれば、さらに多くの寺社があったと推理できる。これは異常を超えた寺社配置であり、いったいどう理解したらよいのだろう。
 大磯町高麗神社をまっすぐ北上すると、平塚市、伊勢原市、厚木市、座間市、相模原市、八王子市、あきる野市、武蔵村山市、羽村市、青梅市、飯能市、日高市と続くが所在する寺社を、列挙すると。次のようになる



  神奈川県と埼玉県を結ぶ100キロの南北線上に、二つの高麗神社と高麗寺がり、その東に同じように「平塚」がある。100キロの南北線上には400メートルごとに寺社がありその数、200以上の寺・社が点在している。これぞ「平塚」の謎というべきではないか。(続く)



■ 神奈川県大磯町周辺の高句麗関連遺跡のネット資料
  @ 釜口古墳(大磯町大磯)・・・・・『神奈川の古墳散歩』大磯(高麗山公園方面)
  A 高来神社(旧高麗権現社)・・・『歴史の町大磯』東側・18、高来神社
  B 慶覚院・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『歴史の町大磯』東側・19、慶覚院