− 真言宗中国開教史(一) −
日本仏教中国開教の発端
明治六年 小栗栖 香頂(おぐるす こうちょう)中国開教を目指して北京に至る
松下隆洪(平塚市 宝善院住職)


■ 一九六五年・夏・北京・広済寺 ■

 周叔迦(しゅうしつか)氏(当時、中国仏教協会副会長)のぶ厚い背中ごしに、私はどうしても一度聞いてみたかったことを問いかけていた。

 「戦争中、日本から各宗の僧侶が中国布教の名目で中国に渡り、各地に寺院や教会を建て、いろいろなことをしていたそうですが、当時の資料のようなものはないのでしょうか」

 すると彼は、そのまま歩きながら、たったひとことだった。

 「そういうものは有りません」

 もしその時彼が、反対に「有ります」と答えていたら、それはそういう会話ですんだだろうし、したがって私のそれからの仕事もだいぶ違っていただろう。多分こういう原稿を書くことも私にはなかっただろう。

 その時の周氏のとりつくしまもないような背中に、私は語りかけてきたような気がする。彼が言ったように本当にそういうものは無かったのか、あるいは有っても無いと彼が答えたのか、私にはわからない。ただ彼が答えたたった一言が、私にはその時、日本人と中国人のあいだにあるまっくら闇の世界のように思えた。多分、知らなければすんでしまったであろう影の世界に、その時入りこんだのかもしれない。人間には自分の運命の大方を左右するような「言葉」を聞くことがあるものだ。できれば私はもう一度、この稿が書きあがったら、彼とはじめて会った北京の広済寺の庭で話しをしてみたかった。しかし彼がすでに死んでしまった今はそれもできない。人生とはそういうものだ。

 その年の夏(一九六五年)、私は約二ヶ月間、中国を旅する機会を得た。林彪の「人民戦争勝利万歳!」というあの論文を、上海から広州へ向かう列車中で初めて読んだ私は、まだ日本国内でもほとんど伝えられていなかった「文化大革命」の、ようやく動きだした見えないうねりのような時を中国にいた。

 私が帰国してから翌年の六六年にかけて、「文化大革命」は堰をきったように各地に展開されていった。当時、私は高野山大学の四年生であった。高野山大学というような仏教大学の学生が、まだ当時はよほどのいわく因縁でもなければ行くことのなかった中国へどうして、出かけることになったのか、それには次のような実は"いわく"があった。