− 『松下隆洪 異論集』発刊のお知らせ −



A4版450頁 カラー頁多数

 ■ 出版にあたり ■

 本書掲載の原稿・小論文の多くは、今日まで宝善院のインターネット・ホームページで発表してきた。というのも非常に限られた分野の資料でもあり、経費をかけて出版する必要もないだろうと考えていた。しかしインターネットで公表したせいか「中国開教史」については、国内・海外(中国・台湾・旧ソ連邦)からも問い合わせなどがあり、このようなことを調べている人も世界にいるのだとびっくりした次第だ。ネットで公表しておけばそれでよいだろうと考えていたのだが、筆者も七十を過ぎ、何時終わるかもしれないという不安も生じてきた。自分亡き後のネット資料の管理なども考慮し、書きまとめた他の小論と併せて今回の出版となった。『弘法大師二度渡航説』では、高野山大学の佐藤任先輩の同趣旨の論文も、ご好意で掲載させていただいたが、残念ながら昨年急逝された。

 『真言宗中国開教史』についてだが、今ではほとんど忘れられているといってよいだろうが、戦前の高野山は北米からハワイ、中華民国、満州国から蒙古、チベットまで広範な交流を持ち、留学生を受け入れ、高野山内に海外留学生のための学院、『興亜密教学院』まで経営していた。敗戦までに数十名の卒業生を送り出していたのである。中国、蒙古、チベットからの青年僧侶を受け入れ、その教育までしていた。密教交流における東アジアにおける一大センターとしての役割を十二分に果たしていたといってよいだろう。このような歴史は、中国、東南アジアに於いても希有であった。

 しかし昭和二十年の敗戦により、これらの事業はすべて突然死し、海外に駐在していた開教師たちも命からがら帰国してきた。特に中国大陸では、敗戦の混乱に加えソ連軍の侵攻により、寺院、教会の財産から寺史資料にいたるまで、何一つ満足な形で持ち帰ることはできなかった。逃げるだけで精一杯だった。中には現地で人民裁判などの非道により、処刑された真言宗僧侶もいたのである。

 戦前からこれら海外開教師の活動史について編集・出版の要望は高野山当局に対し、強くあった。敗戦間際、資料収集の着手までには至ったのだが、敗戦の混乱によりそれどころではなくなった。あるいは、一連の海外開教活動が何らかの形でマッカーサー占領軍から、戦争犯罪として訴追されるのではないかという不安を、宗派当局は持っていた。これらの理由により「海外開教史」の編集は躊躇され、時間の経過とともに関係者も他界し、ますます実現は遠ざかり、今日に至ってしまった。

 筆者は諸般の事情からこれらの歴史に関わるようになった。

 詳しくは本文に詳細したが、高野山大学四回生(一九六五年)の折、たまたま中国旅行の機会を得、弘法大師入唐留学の地、西安・青龍寺跡地を戦後初の日本人として参拝できた。当時は日中国交回復以前の時期でもあり、堂塔の復興などは全くなされておらず、コウリャン畑の畝の向こうに背丈ほどのコンクリ製の記念碑が経つのみの、荒涼とした風景だった。全く何もない地平線を見通しながら、この空の下にお大師様がおられたのだと、ひとしきり感慨をはせたのを覚えている。  高野山での帰国報告の席上、宮坂宥勝博士から「戦前における真言教団の中国大陸活動史が未編集である事、この際、君がぜひやるべきだ」とのお話をいただいたことが発端だった。今ようやく先生とのお約束の何分の一かを果たすことができたかと思う。

 誰しも思うことだが、人生は確かにあざなえる縄のようだ。上海の静安寺で初めてお会いした持松法師には大歓迎を頂いたが、その持松法師が実は戦前、高野山大学に数回、数年、留学されていた事を帰国後に知った。母校、高野山大学から後輩学生が面会に来ることを、毎日興奮して、心待ちにしていたと大歓迎を頂いた。中国仏教界の周叔迦会長も、戦前何度も高野山に来られていたことなどを帰国後の資料調査中に知った。しかし文化大革命直前の政治状況の中、これらの事実は命にかかわることで、とてもお互い言い出せるわけもなかった。

 筆者の調査では真言宗から中国開教に加わった僧侶・関係者は、五百人程度と考えられる。これらの人々も年々高齢化し、今では生存者もいなくなってしまった。筆者の出身大学からも多くの開教師が大陸に渡り、異国で命を落とし、おそらくは遺骨も戻らぬままだろうと思われる開教師も多数、存在する。

 関係宗派・本山はせめてこの事実の調査と供養だけでもするべきでなかったのか。このままでは五百人にも上る真言僧の異国での業績も、間もなく埋没してしまうことは間違いない。

 これらの資料を今ごろ公表するのは逡巡の末である。というのは関係者、特に中国人にとってはこれらの事実が、生命にかかわる時代があった。直接の関係者も死亡してしまった今ではそれも杞憂と思われる。筆者の責任も本書の刊行でようやくその責を置きたいと思う。

 巻末の『仏教音楽研究』は、平成七年の東寺創建千二百年記念事業に、『鈴木智辨・加藤宥雄声明大全刊行会』(代表・松下隆洪)から刊行された声明全集の付属資料として、特に中国人の関係論文などを適宜、会員あてに、翻訳・配布していたものの再録である。

 中国山東省「魚山」は古来「声明の聖地」といわれているが、実際に現地を調査した日本人は戦前も戦後もいなかった。小宗刊行会では平成八年六月、現地を調査し、現地の研究機関、大学などとも交流をしてきた。その関係資料である。

 中国魚山は当初、日本国内の旅行会社を通じて、現地調査を依頼したところ、中国人関係者ですら、「そんなところがあるんだろうか」という反応だった。それが我々が現地を訪ね、「魚山博物館」「曲阜師範大学・音楽学部」などへの訪問とその後の交流、声明CD全集の寄贈など、これら現地との情報交換を通じ、大変な速度で魚山が復興されていることを知った。山東省には観光資源としては曲阜の孔子遺跡と、泰山くらいで観光資源に乏しいことも省政府が「魚山公園」の整備・復興に尽力している理由だろう。とにかく大変な勢いで整備されているようだ。読者の中からも、ぜひ中国旅行の途中、立ち寄りをお勧めしたい。本書掲載の劉玉新氏の『魚山曹植墓』は、恰好な現地ガイドブックと思う。
 
平成二十八年十一月吉日
松下 隆洪

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